41 自転車
尋常小学校の校長先生が自転車で通ると、人が家からとび出して来ました。明治の終り頃俵まだ自転車は珍らしかったのです。
自転車が乗物として使い始められたのは明治二、三十年頃からで、日露戦争後から大正年間には各地で自転車競技が盛んに行なわれました。大和で最初に自転車に乗った方は若い頃、八王子まで行って競技に参加したそうです。
所沢に荒幡(あらはた)富士という所があります。広い所で適当な坂もあり、子供の頃(現在七十八歳の方)自転車を習うにはいい場所でした。小学校を卒業し、上の学校へ行く人は立川や所沢まで自転車で通いました。
大正十二年の大地震のあとを見に深川まで自転車で行った人達がありました。弁当を持っていったのですが、「やたらな所で出すとくわれてしまう」ので上野の山でかくれてひろげたそうです。また、ちょうど東京にいて震災にあったお父さんを迎えに新宿まで自転車で二時間あまりかかって探しに行き、半蔵門(はんぞうもん)で見つけたという人もいました。
大正の末頃には、自転車で大山に行ったという話もあります。入梅時で立川あたりから雨に降られ、油紙やござで雨支度をしながら八、九人で行きは日野橋を渡りましたが、帰りは橋が流されていました。川が渡れず日野から立川まで自転車のタイヤの空気を抜いて貨物扱いで電車に乗せて帰って来ました。立川でまた空気を入れて家路につきました。大山まいりが計画されるとそれに合せて自転車を買ったり、修理をしたりしたものです。
夜はカンテラを自転車の前につけ、ローソクを立てたこともありました。あまりスピードは出さないのですが、凸凹道なので消えることもあり、回りが真暗なので家の近くにたどりつくまでとてもこわい思いをしました。
始めは珍らしかった自転車が普及し、実用化すると自転車用の手車が考えられました。これがリヤカーで物を運ぶのに能率的になりました。新宿の市場まで野菜をつんで運んだ時は朝四時頃ここを出て、九時なるこまでに着かなければならず、途中成子坂(なるこさか)で大汗をかいたものです。
リヤカーに奥さんと赤ちゃんと昼飯をのせ自転車でひいて畑へ行きました。洗濯物も持っていき原にひろげておけば乾くし、木を植えて紐をぶら下げ子供のブランコに、トタン板で囲ったトイレも作りました。明治生れの方の若い頃のことです。
今は東大和市駅前には自転車が天気のいい日にはまぶしく光って、人の通る余地のないほどぎっしりとつめこまれています。
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